LOGIN馬車が離れに到着した。
窓の外を見ると、10名程のフットマンとメイド達が左右向かい合わせに整列している。恐らく出迎えに来てくれたのだろう。
そして馬車に近付いて来る初老の男性。彼は馬車の扉を開けると頭を下げた。
「お帰りなさいませ。旦那様」
「ただいま、チャールズ」
フィリップは笑みを浮かべると馬車から降りた。そして私を振り返る。
「エルザ、君も降りなよ」
「はい」
しかし、相変わらずフィリップは私に手を貸してくれることはない。ただ黙って、こちらを見つめているだけだった。
(やっぱり……手を貸してくれるつもりはないのね……)
そこで足元に置いたボストンバッグを持つと、馬車の手摺を握りしめてスカートの裾を踏まないように気を付けて馬車から降り立った。
その様子をチャールズと呼ばれた初老の男性は驚いた様に見ている。……いや、彼だけではない。その場にいた使用人達全員が私を凝視している。それが無性に恥ずかしかった。
(出来れば人前でだけでも尊重してくれればいいのに……)
けれどそんなことは口に出せない。……出せるはずがなかった。
フィリップは私が馬車から降りるのを見届けると声をかけてきた。
「エルザ。この離れで執事をしてくれるチャールズだよ」
そしてフィリップはチャールズさんに視線を移す。
「後のことは任せたよ。僕は少し疲れたから先に部屋に戻って休ませて貰うから」
その言葉に驚いた。チャールズさんも驚いた様子でフィリップを見る。
え? まさか……本当に行ってしまうつもりなのだろうか?
思わず手を伸ばしてフィリップに声をかけた。
「あ、あの……フィリップ……」
しかしフィリップは私の呼びかけが聞こえないのか、そのまま歩き去ってしまった。
差しだした手を取られることも、一度も私を振り返ることもなく……。(そ、そんな……)
思わず俯くと、すぐにチャールズさんが挨拶をしてきた。
「ようこそお越しいただきました。奥様、チャールズ・アボットと申します。こちらのお屋敷でお仕えさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
「エルザと申します。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
慌てて顔を上げると挨拶をする。
「そんな、奥様。どうぞ顔をお上げください。仮にも本日からこちらのお屋敷の奥様なのですから」
恐縮した様子のチャールズさん。私はどうやら彼に気を遣わせてしまったようだ。
「はい、分りました」
笑みを浮かべて返事をすると、次に彼は向かい合わせで並んでいる使用人の人達を紹介してくれた。
「こちらのお屋敷では厨房担当が3名、フットマンが4名、そしてメイドが3名。私を含めて合計11名の使用人が働いております。そして彼が御者のジェイコブですが、彼は本館と離れの両方で御者を務めております」
御者のジェイコブさんは無口な男性なのだろう、帽子を取ると頭だけ下げてきた。
その後は紹介を受けた使用人の人達が次々と前に進み出て私と挨拶を交わした。
皆気さくで優しそうに見えた。(良かった……この人達となら何とかやっていけそうだわ……)
心の中で安どのため息をつく。
やがて全員の挨拶が済むとチャールズさんが手を差し伸べてきた。「それではお部屋に参りましょうか? お荷物、お持ちいたしますね」
「あ、ありがとうございます……」
ボストンバッグを手渡すと、彼は少しだけ眉を顰める。
「……こんなに重たかったのですか?」
「え、ええ。あ、でもご心配なく。私、こう見えても力がありますので」
「……そうですか? では参りましょうか?」
「はい。よろしくお願いいたします」
私はチャールズさんに連れられて屋敷に向かった。
使用人達の、私を憐れむような視線を浴びながら――
「フィリップ……」俯きながら彼に声をかける。「何?」「少し……考えたいことがあるから、1人にさせて貰えるかしら……?」「いいよ。そういう願いなら、お安い御用だよ」そういう願いなら……。フィリップの言葉が追い打ちをかける。なら、どういう願いなら聞いてくれないの? そう問い詰めたくなるのを私は必死で我慢した。「それじゃ僕は本館に行ってくるよ。両親に報告に行ってくるから」「え? 本館」それなら私も挨拶に行かなければ。仮初でも今日から私はフィリップの妻となったのだから。「あの、だったら……」私も――と言おうとしたとき、フィリップが扉の前で足を止めた。「エルザ」「何?」彼は私に背を向けたまま返事をする。「君は勝手に本館へ行かないでくれよ? 誰かに呼ばれた時以外はね。僕は君を正式な妻と認めたわけじゃじゃないんだから。そのへんは身をわきまえてくれるかな?」「!」その言葉に冷水を頭から浴びせられたかのような感覚を覚える。(そんな……そこまで残酷なことを言うなんて……!)駄目だ……ついに堪えていた涙が溢れだす。「え、ええ……わ、分かったわ……約束する……」返事をするも、その声は涙声だった。「うん、よろしくね。あ、そうそう。夕食は午後6時半だよ。メイドが知らせに来るからね」フィリップはそれだけ言うと、扉を開けて部屋を出て行った。涙声の私に気付いているはずなのに、一度もこちらを振り返ることもなく……。――パタン扉が閉じられ、部屋に静寂が戻る。「う……」ベッドに駆け寄るとクッションに顔を押し付けた。「うっうううう……うっうっうっ……」鳴き声が外に漏れないように、いつまでもいつまでも泣き続けた――***** 気付けば、部屋はすっかり薄暗くなっていた。ヘッドボードによりかかり、呆然と窓の外を見つめる私。泣き過ぎで頭がズキズキと痛んでいた。空はオレンジ色からすっかり夜の色に変わり、一番星が大きく輝いている。「今……何時なのかしら……?」ポツリと呟いた時。――コンコン部屋の扉がノックされる音が聞こえた。「はい」扉に向かって返事をすると女性の声が聞こえた。『奥様、すみません。お夕食の準備が出来たのですが……』奥様……。果たして、私はそんな風に呼ばれる資格があるのだろうか?「今……行きます」弱々しく返事をする
泣きたい気持ちでいっぱいだった。けれど、ここで涙を見せればますますフィリップから嫌がられてしまう。だから必死で涙を堪えながら尋ねた。「フィリップ……『僕の所へお嫁に来るかい?』と言ったあの言葉は……何だったの?」「あれは、父と母に説得されてやむを得ず言ったんだよ。エルザが僕との結婚話に頷かないから、説得するようにって言われてね」「そ、そんな……」一瞬目の前が真っ暗になってしまった。フィリップのあの言葉は自分の意思ではなかったなんて……。「両親は何としても僕を結婚させようとしていた。ローズしか愛せないと言う僕の言葉に耳も傾けずにね。それでローズの妹の君なら身代わりになれるんじゃないかと両親は考えて、エルザと僕の結婚話を勝手に進めたんだよ。……僕は最初から嫌だと言っていたのに。全く、迷惑な話だよ」「迷惑……」口の中でポツリと呟く。「いい加減、断り続けるのも疲れたんだよ。そこでとりあえずエルザと結婚をすれば、もう煩わしい結婚話から開放されると思ってね。君に結婚の打診をしてみたんだよ。内心断ってくれることを願っていたけど……まさか承諾するとは思ってもいなかった」フィリップがため息をついた。「!」その言葉に私は自分が酷く浅ましい人間だと言われているような気持ちになって思わず顔が羞恥で赤くなる。そんな……。フィリップは私がプロポーズを断ってくれることを願っていたなんて……。「わ、私は……フィリップのプロポーズを……本当は受けるべきじゃなかった……ってこと?」気付けば縋るように訴えていた。「まぁ、はっきり言ってしまえばそうだね。だけど、君は承諾した。そうなるともう僕達は結婚せざるをえないじゃないか?」フィリップは肩をすくめた。「……そ、そん……な……」もう駄目だ。今にも涙が出てきそうだ。何か……他のことを考えて、気を紛らわせなければ、少しでも油断すれば涙が頬を伝いそうだ。私が返事をしないからか、フィリップの話は続く。「とりあえず、僕と君は結婚したけれども当然寝室は別々だ。朝と夜の食事をいきなり分けるのは周囲に怪しまれるから少しずつ別々にするようにしていこう。そして預けた離婚届だけど……」「!」その言葉に肩がビクリと跳ねる。「エルザだって、こんな生活すぐに嫌気がさすと思うんだ。だから、この結婚を終わらせたくなったらいつでも役所
「エルザはローズの妹だから。子供の頃から良く知っているから、愛せると思ったけど……やっぱり無理だった。だって君は同じ姉妹とは思えないほど似ても似つかないからね」「え……?」フィリップは悲しげな顔でこちらを見ているけれども……私の方が余程その言葉によって傷ついていた。姉とは似ても似つかない……。それは私が姉とは違って美しくないと間接的に言っているようなものだった。美しい姉とは違い、自分は少しも似ていないと言う自覚はあった。私は姉のようなプラチナブロンドではないし、瞳も紫ではない。ダークブロンドの髪に、ヘーゼルの瞳……姉に比べれば見劣りするのは自分が一番良く分かっていた。「で、でも……私達、今日結婚したばかりなのに……いきなり、そんなことを言われても……」「だから、今言うんだよ」その言葉はとても冷たい声だった。「どういう……こと……?」「僕に普通の夫婦のような関係を求められても困るから、結婚式を終えた後に告げようと思っていたんだよ。この結婚は……はっきり言ってしまえば僕の意思じゃないからね。両親と君の両親、そして君が決めた結婚だ」「フィ、フィリップ……」フィリップは私から視線をそらせると、再び窓に目を向けた。「僕にはローズだけだった。彼女意外の女性は欲しくはなかった。けれどローズは僕と結婚する約束を破って……突然この地にフラリと現れた男と恋に落ちてしまった。結婚式も間近だったのにも関わらず……駆け落ちして逃げてしまった」私は黙ってフィリップの話を聞いていた。彼の顔は苦悩に満ちている。「その時の絶望が……君に分かるかい?」「それは……」分かると言えば分かるし、分からないと言えば……分からない。何故なら姉のローズは私達家族にとっても特別な存在だったから。姉は誰からも愛される女性だった。地味で目立たない私とは違って、その場にいるだけで目立っていたし、周りを明るくしてくれた。それにとても優しい人だった。私達家族の自慢であり、大切な存在だったのに……。姉は私達家族を捨てて、本当に愛する男性を見つけて去ってしまった。だから、大切な人を失ってしまったという点ではフィリップと同じであると言えた。でも家族の情愛と、恋人との愛はまた違うものだということも理解している。だけど、その話を目の前で告げられている私は? 私が今どんな気持ちかフィリップ
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ」フィリップは私の顔を見ることも無く言い切った。「え……?」あまりの言葉に頭が追いつかなかった。するとフィリップは部屋の中央に置かれた丸テーブルへと向かった。そこには大きめの茶封筒が乗っている。様子をうかがっているとフィリップは茶封筒を手に私の元へと戻って来ると差し出してきた。「これを預けておくから、離婚する気になったら僕の代わりに提出してくれ」「な、何……?」震える手で封筒を受け取り、中から書類を取り出すと出てきたのは……。「え……? り、離婚届け……?」あまりのショックで言葉が出てこない。するとフィリップは言った。「エルザ……君だって良く知っているじゃないか。僕が好きな女性はローズだってことくらい」「ローズ……お姉さま……? だって、お姉さまはもう……」私はその名を口にした――**** 私には3歳年上の姉がいる。 姉の名前はローズ。その名の通り、とても美しい人だった。プラチナブロンドの巻毛に紫色の瞳……薔薇色の肌にピンク色の唇。まさに絶世の美女と言っても過言では無かった。私達家族は平民だったけれども、姉の美貌は王侯貴族にまで届く程で、数多くの求婚者が現れた。けれど、どれ程身分が高い相手にも姉は首を縦にふることはなかった。何故なら、姉には恋人がいたからだ。子供時代からの幼馴染であり……その人物が今、私の目の前に立っているフィリップだった。2人は結婚の約束をしていたが、その約束は1年前に突然破られることになる。姉に好きな人が現れたからだ。その男性は他の国から来た旅人。偶然出会った2人はその場で恋に落ち、あっという間に結婚の話にまで飛躍した。けれど、フィリップと姉は既に半年後に結婚することが決まっており、両家は猛反対した。何しろフィリップは男爵家の長男であり、片や我が家は名門商家とは言えども所詮はただの平民なのだ。そこで両家は強引に姉と男性を別れさせようとしたのだが……ついに姉は恋人と一緒に駆け落ちしてしまい、行方をくらましてしまった。子供の頃からずっと姉を一途に好きだったフィリップの嘆きは凄まじく……一時は命を断ってしまうのではないかと思われた。彼の両親は姉のことは諦めるように告げ、結婚適齢期のフィリップを何とか結婚させる為に様々な縁談を持ち込んだ。けれど、姉のことを
カチャ……チャールズさんが部屋の扉を開けた。次の瞬間、大きな掃き出し窓にバルコニー付きの明るく広々とした部屋が私の目に飛び込んできた。部屋を目にしたとき、自分の予感が的中したことを知る。ここは、私の為に用意された部屋ではない、ということが――淡いピンク色のカーペットに薔薇模様のレースのカーテン。サーモンピンクのカーテンには細かな薔薇が描かれている。それだけではない。壁紙も、天井も……何もかもが淡いピンク色の薔薇模様で統一されていたのだ。部屋に置かれた家具は白を基調としたアンティーク風の家具で、さながら貴婦人のような美しい部屋だった。だけど……これは私の部屋ではない。フィリップは私の新居を整える為に色々手配したと言っていた。けれどそれは嘘だということが一目ですぐに分ってしまった。何故なら、この部屋は……。その時、不意にチャールズさんが声をかけてきた。「エルザ様、もしや感動して言葉を無くされてしまいましたか?」何も事情を知らない彼はニコニコと笑みを浮かべて私を見つめている。「え、ええ。そうですね。まさか、こんなに素敵な部屋を用意してくれていたなんて……本当にフィリップには感謝しかありません」胸の動悸を押さえながら、返事をした。(そうよ……これ位大丈夫よ……だって、私はもうフィリップと結婚式を挙げたのだから……)震える手を押さえるように、両手を前で力強く組む。「そうですか? ご満足いただけて何よりです。それでは今お飲み物を用意してまいりますので、お部屋でおくつろぎ下さい」「はい、ありがとうございます」――パタン扉の閉まる音が部屋に響く。チャールズさんが部屋を出て行き、私は1人きりになった。部屋の中央に置かれたカウチソファにフラフラと近付き、沈み込むように座る。このカウチソファも当然の如く薔薇模様だった。「……部屋に薔薇の花が飾られていなかっただけマシかもね……」私は薔薇科のアレルギーを持っていた。その為、花はおろか、バラ科に所属する果物や飲み物も口にすることが出来ない。フィリップはそれを知っているハズなのに……。「……いいえ、きっと違うわ。子供の頃の記憶だから、フィリップは忘れているだけかもしれないわ」私はそう信じる事にした。……というか信じたかったのだった ――**** カウチソファに座っていると、温かな
チャールズさんに連れられて、エントランスを通り抜けた時に思わずため息がもれてしまった。「どうされましたか? エルザ様」前を歩くチャールズさんが心配そうな表情を浮かべて振り返る。「いいえ、何でもありません。どうか気にしないで下さい」「はい……分りました。それではこちらのお部屋ですが……」チャールズさんは屋敷の説明を始めたけれども、頭に少しも入ってはこなかった。何故なら私は全く別のことを考えていたから――**** 私にはフィリップとの結婚式で、ささやかな夢があった。それは結婚式を挙げた後の夢。2人揃って新郎新婦の衣装姿のまま、大勢の参列者達から祝福されて馬車に乗る。そして新居へ到着すると、フィリップは花嫁の私を抱きかかえて屋敷の中へ2人で入る。そんなささやかな夢を――花嫁は花婿に抱きかかえられて家に入ると一生幸せに暮らすことが出来ると言う、昔から伝わる言い伝えを信じ、夢にまで描いていたというのに。現実はどうだろう?参列者は身内だけ、結婚パーティーも開かない指輪の交換と結婚証明のサイン。直ぐにウェディングドレスを着替えるように言われ、エスコートすらしてくれない。馬車の中では私とは余計な会話をしたくないと拒絶された。降りる時ですら手を貸してはくれない。せめてほんの少しでも私の事を思ってくれるなら、使用人達の前くらい、私を尊重して欲しかった。けれど彼はそれすらしてはくれなかった。そして今、私は執事のチャールズさんと屋敷へ入り……部屋の説明を受けている。結婚したばかりなのに、早くも私の心は折れそうになっていた。だけど、それでも私はフィリップのことが好き。彼を愛してる――****「……あの、奥様? 大丈夫ですか?」不意に話しかけられて我に返った。「あ! す、すみません!」慌ててチャールズさんを見上げると、心配そうな眼差しで私をみつめている。「大丈夫ですか? 奥様。何やら先程から思いつめた表情をされておりましたが……お加減でも悪いのでしょうか?」「いえ、大丈夫です。すみません……ご心配おかけしてしまって」心配させないように無理に笑みを作る。私は……上手に笑えているだろうか?「ですが、先程から顔色が悪いようにお見受けします。他のお部屋の案内はまた後日にしましょう。まずは先に奥様のお部屋にご案内いたしますね」チャールズ